美術の教養を身に付けてアート作品を見る目や創作のヒントにしようという美術の時間。第6回目は19世紀末の大衆美術の発展とアールヌーボー運動、そしてアールヌーボーの流れに乗ったポスター作家のミュシャとロートレックについてまとめます。
目次(Contents)
19世紀末に美術印刷の技術が発達した。
19世紀末、美術印刷の技術が発達しました。その中でも特にリトグラフといわれる印刷技術は、色彩が自由で石版に描いたものを大量印刷できる利点がありました。作品が大きければ石も大きく、それぞれ石を繋ぐ必要がありますが、美術印刷技術の発達により美しく印刷されたアート作品が一般に広まるようになりました。
大衆文化発達の背景
大衆文化が興った時期はイギリスだとヴィクトリア女王、フランスだとナポレオン三世の時期でした。一般市民が贅沢をし始めるようになり、商業演劇や興行舞台、出版などの大衆文化が成立してきます。
それまでの芸術は一部の支配層をパトロンにしていましたが、徐々に芸術は一般市民にパトロンを求め、大衆の興味を引く作品を作るように移っていきました。
教会→王侯貴族→一般商人・ブルジョワ→一般市民
絵画の伝達も大量に多くの複製が作れる版画の登場で大きく変わってきます。当時はテレビが無いため、版画が大衆的なメディアでした。ジャーナリズムの発展期と重なり、新聞挿絵文化も盛んになりました。これは後にポスター文化の元となりました。
アールヌーボーとは東洋美術に影響を受けた新しい美術を目指す芸術運動
この時期にアールヌーボーという国際的な美術運動が興ってきます。アールヌーボーとは東洋美術に影響を受けたスタイルです。
アールヌーボーの特徴は植物をモチーフにした唐草文様ですが、それまで植物だけの絵というのは西洋には無く、東洋にしかありませんでした。
西洋では植物が描かれるときは静物画として贅沢への戒めであるとか教訓の意味を込めたりしなくては成立しないとされ、更に単なる植物を描く際もただの植物を描くのではなく、花瓶や篭で飾られた状態を描いていました。植物をただ植物と描くのでは無く、何かしらの設定や意味を込めたのが西洋でした。
一方で東洋では植物そのまま、虫そのままを描いていました。東洋美術の植物や動物のそのままを描くという主題の取り方(東洋趣味)がアールヌーボーという形でヨーロッパに輸入されると、万国博覧会で紹介され、初めて西洋の人は東洋の美意識に触れました。そのことが引き金となり、ちょうど印刷技術が発達し芸術がパトロンを大衆に求めた時代、東洋趣味は新しい美意識として西洋美術に取り入れられ大衆の芸術に大きく影響を与えました。
アールヌーボーはこのように博覧会から始まり、パリでもウィーンでも開かれました。最初はパビリオンの建築様式のデザインや服装や工芸品に始まり、後に美術がそれに乗っかりました。流行という考え方が生まれ、時代の流行を作り出す機運、大衆芸術、新時代芸術の始まりを掲げました。
ミュシャについて
この時代のポスター作家職人で日本でもファンが多いアルフォンス・ミュシャ(Alphonse Mucha)は、アールヌーボーと自らの出自のロシア正教のイコンを融合した作品を作りました。イコンの特徴は装飾画面で、アールヌーボーの唐草文様とイコンの聖母像とか聖人とかを組み合わせた作品をミュシャは作りました。
当時、最も人気を博した女優にサラベルナール(Sarah Bernhardt)という女優がいましたが、その人に直々にポスター制作を委託されたのがミュシャでした。ポスターは大衆にウケてこそ価値があるもの。大衆文化を背景にした新しい美術としてミュシャが登場し、流行を作り出す側として大衆に人気のある作品を作っていきました。
ロートレックについて
同じくこの時代のポスター作家としてアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(Henri de Toulouse-Lautrec)がいます。彼は大金持ちの大貴族の家に生まれ、幼い頃落馬し足の骨の成長が止まってしまったため身長が低くなってしまったというエピソードがあります。
ロートレックの作品にはミュシャに見られるイコン的な要素がなく浮世絵から大きな影響を受けました。ロートレックはキャバレーのポスター作家として有名で、当時の女優サラベルナールをロートレックは観客の立場として描きました。