【美術の時間11】日本美術の昔から今にいたるまでの流れをざっとまとめました。

【美術の時間11】日本美術の昔から今にいたるまでの流れをざっとまとめました。
俵屋宗達 「風神雷神図」(建仁寺蔵)

美術の教養を身に付けて作品を見る目を養い創作に活かそうという趣旨の美術の時間。これまでは西洋美術を掘り下げて行きましたが、今回は自国の文化である日本美術・日本画の流れについてざっとまとめました。本記事を読めば日本美術の流れがざっと分かります。

日本美術の源流とは。中国由来の水墨画と埴輪からはじまるゆるキャラ!?

日本の美術はゆるさが特徴。ゆるいディフォルメがある。
日本の美術はゆるさが特徴。リアリズムよりもゆるいディフォルメがある。

日本美術の源流はどこから来ているのでしょうか。日本の美術の源流は2つあるとされています。

1つは中国から伝来したもので、これは水墨画に繋がっていきます。もう1つが日本独自の美術伝統とされるもので、埴輪に見られるゆるキャラみたいな特徴を持つ作品群です。

中国の兵馬俑(へいばよう)と日本の埴輪を比べてみると、中国の兵馬俑はリアリズムでキリッと写実的に造形されているのに対して、日本の埴輪は非常にゆるくて、むしろゆるすぎるほどディフォルメされています。

権力者の供え物として、ここまでゆるい特徴を持った作品は世界でも殆どなく、こうして見てみると、ゆるさが日本美術の独自の特徴であることが分かります。

中国由来の水墨画の伝統は禅画になり、ゆるさが特徴の日本美術は絵巻物に繋がっていく

白隠「円窓内自画像 永青文庫蔵」
白隠「円窓内自画像 永青文庫蔵」

室町時代の初期や鎌倉時代には、中国由来の水墨画の伝統は悟った境地を表現するのが目的の禅画になりました。水墨画はこだわりを持ったり、ふざけたりしないということに重きが置かれ、絵を描き進めていく時に描き間違えをしてもそのまま描き流していき、塗り直しが許されないのが特徴です。悟っている境地を表現するから、一度の筆の勢いに任せ、作品を良くしようというこだわりは排除されるものだとしました(執着しない→悟り)。

土佐光起筆「源氏物語画帖」より「若紫」
土佐光起筆「源氏物語画帖」より「若紫」

一方で埴輪に見られる日本独特のゆるい視覚的伝統は、絵巻物に繋がります。平安から鎌倉時代に多く描かれた絵巻物はとてもコンパクトなサイズの中に登場人物がおどけた表情や巻物をめくる動きに合わせて火事の現場が拡がっていく光景などアニメーション的な、漫画的な表現の画面構成が見られます。この水墨画の伝統と日本独自のゆるいディフォルメ伝統の2つがぶつかるのが室町末でした。

絵巻物の面白さを取り上げた土佐派という絵師達

Bamboo in the Four Seasons, Muromachi period (1392–1573) Attributed to Tosa Mitsunobu (1434–1535).  土佐派は絵巻物の中に描かれるシンボルを切り取り、大きく拡大して画面に表した。
Bamboo in the Four Seasons, Muromachi period (1392–1573) Attributed to Tosa Mitsunobu (1434–1535).
土佐派は絵巻物の中に描かれるシンボルを切り取り、大きく拡大して画面に表した。

中国由来の水墨画の伝統と、絵巻物の伝統という二つの流れが合流したのが室町時代です。土佐派(とさは)とはやまと絵(中国的な絵画に対して日本的な絵画のことをやまと絵という)の一派で、日本の絵巻物などにある絵作りの面白さを部分的に切り取っていきました。絵巻物は小さいため、必然的に小さく描かれていた人物や植物などを切り取って、画面に大きく表しました。絵巻物では小さく描かれた象も土佐派(やまと絵)では2メートルぐらいの象になり、大きい筆でざっと描かれます。

この土佐派の影響下で俵屋宗達(たわらやそうたつ)長谷川等伯(はせがわとうはく)などの琳派の元となる絵師が生まれてきます。

室町末~安土桃山時代が日本における最高のデザイン力を発揮した時代

狩野永徳「唐獅子図」
狩野永徳「唐獅子図」

室町時代から50年ぐらい経って、俵屋宗達(たわらやそうたつ)や長谷川等伯(はせがわとうはく)の再発見がありました。当時の大名達や幕府を代表する画家として狩野永徳がいて、狩野派(かのうは)が力を持ちました。特徴は、豪放磊落(ごうほうらいらく)。小さな事にこだわらない大きく快活とした姿勢で、天守閣を飾るような絵、武将達を対象に絵が描かれました。

長谷川等伯は職場を探して、宮中・皇室に入って、屋敷を飾る絵を描きました。こちらは皇室を飾る絵なので、武家を描く絵よりも品が良いとされたと言います。

長谷川等伯 「松林図」(右隻)
長谷川等伯 「松林図」(右隻)

こうした室町末~安土桃山時代が日本における最高のデザイン力を発揮した時代で、視覚が権力と結びつき、視覚的なビジュアルの価値が最も高まった時代です。それは鎧であったり、旗であったり、天守閣であったり、建造物であったり、視覚に訴えるものの価値が高く評価された時代。現代に至るまで二度とそうした時代はやってきていません。

琳派は京都の文化。リメイクであり、言ってしまえばパロディの側面もある

尾形光琳「燕子花図」
尾形光琳「燕子花図」

琳派(りんぱ)というのは、俵屋宗達(たわらやそうたつ)や長谷川等伯(はせがわとうはく)が源泉となっています。有名な風神雷神図は宗達が最初に描き、他の人も追随して風神雷神図を描いています。琳派は彼らのリメイクでありパロディとしての側面があったわけです(単なるコピーでは無く敬意を込めて)。

琳派は京都の文化であり、贅沢で豪奢な感じだったため、贅沢禁止令が出ていた江戸ではあまり発展できませんでした。江戸の琳派もあるにはありますが、拡がりを持てず、お殿様の個人的な趣味としてとどまりました。お殿様のためといっても江戸屋敷の屏風絵を描くというもの。大邸宅が生まれ、お城を作る時代じゃなくなったのも琳派が江戸で広まらなかった要因の一つです。元禄時代になって、町人文化が発達した頃に浮世絵が出てきます。

浮世絵は基本的には土佐絵(とさえ)=やまと絵

鳥獣人物戯画 高山寺蔵(甲巻、兎と蛙の相撲の場面)
鳥獣人物戯画 高山寺蔵(甲巻、兎と蛙の相撲の場面)

浮世絵は基本的には土佐絵(とさえ)=やまと絵をベースとしており、水墨画とは違ったものです。これらの絵の道具自体は古い時代に仏画の道具として入っています。鳥獣戯画はお坊さんが巻物を描くようになり、彼らが楽しみで描いたもの。絵巻物には随所に漫画的な楽しさが込められています。土佐絵はその面白い動作を再発見したものですが、ここからお土産の絵、当時の旅行のお伊勢参りやお宮参りのお土産の札などの絵として発達して、擬人画のようなものが生まれ、江戸時代に入り需要が生まれました。版画が発達し、鈴木春信のような浮世絵絵師が出てきます。

鈴木春信「「中納言朝忠(文読み)」」
鈴木春信「「中納言朝忠(文読み)」」

羽子板や絵馬のようなお土産用の絵から版画の発達による絵師の需要は浮世絵のプロ絵師達を生み、現代の漫画とアシスタントのように絵師に弟子入りして下働きするようなシステムが生まれます。浮世絵は次第に江戸のお金持ちの趣味になっていき、旦那衆の高尚な趣味になっていきます。その中から出てきたのが若冲などの絵師です。

市民社会が成長すると蘭学であったり、音楽や天文学などが輸入されます。町人文化は暇人で、ある程度お金を持っている旦那衆がいないと成立しません。浮世絵が成立した背景には市民社会の成長もありました。

町の絵師達は漫画のルーツになった。

河鍋暁斎「閻魔と地獄太夫図」
河鍋暁斎「閻魔と地獄太夫図」

明治になった時には町の絵師達がいて、河鍋暁斎(かわなべきょうさい)など、町の絵師達は絵がとても上手いとされました。明治期になってもや喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や葛飾北斎(かつしかほくさい)らの影響を受けた絵師たちが伝統を受けつぎ、落語家に弟子入りするように絵を専門にしている人に弟子入りして師匠の絵を学び受け継いでいきました。彼らは主に版画の下絵を制作する技術を磨いていき、こうした町の絵師達は漫画のルーツとなりました。

明治政府の文明開化で日本的な絵も排除された。

楊洲周延 憲法発布略図 明治22年
楊洲周延 憲法発布略図 明治22年

時代が進むと、明治政府は文明開化の中でそうした日本の伝統絵師達を排除しました。具体的には徳川幕府についていた狩野派や江戸の絵師達は官職から追い払われました。

職場を失った江戸の絵師の伝統を受け継ぐ人達は児童小説・少年小説の挿絵画家になったり、絵はがきの絵を描いていて食いつないでいきますが、とても弟子をとる余裕がないため、その人達の死滅とともに江戸の技術持っている人は死滅したといいます。

これに入れ替わって黒田清輝たちが入ってきて、帝展を開き、ラファエル・コランから持ち込んだ西洋画の伝統が入ってきます。

日本画は外国人が日本美術を絶賛した流れに乗り復活するも…。

横山大観 「秩父霊峰春暁」
横山大観 「秩父霊峰春暁」

文明開化で捨てられた日本画の伝統はアーネスト・フェノロサなどの外国人が日本固有の美術を高く賞賛したため復興の兆しを見せます。日本の美術運動が興り、国威発揚という日本文化を見直す機運が出来ました。

洋画と日本画は全く別の流れをたどりますが、国立の東京美術学校の日本画の最初の卒業生である横山大観朦朧体(もうろうたい)を確立するなど、日本の美術を深めた先の、さらに深いその先を探求したと言います。

大観は美術の伝統と改革を押し進めて、外国に持っていって高く評価されるようになりますが…。ここで戦争に突入します。

戦争で失われた日本画の流れ。GHQの美術統制を引きずっている現代の日本画。横山大観は戦後50年は公立の美術館での展示は行われなかった。

大観は日本文化を象徴する画家であり、多くの人気を獲得しました。そして大観自身も自らの作品や自身の資産を軍に寄付するなどしていました。

戦争の結果、日本は敗戦。大観は戦争責任もあるのでしょう、公立の美術館での展示は50年間開かれることはありませんでした(人気の作家なのでデパートや民間私設の展示会はあった)。アメリカのGHQが入ってきて、新政策美術家協会展という公募展が開かれ、アメリカの指導する日本画が日本画として定義されます。

具体的には、日本画はドローイングはダメでペインティングにしろ、というもの。水墨では余白を禁止し、全部塗り込めないといけないとされ、これが今の日本画というジャンルになっています(横山操(よこやまみさお)などの作品)。

参考→Google画像検索 現代日本画

現代日本画を見ると、全部画面を塗っていることが分かります。これは、余白はドローイングと見なされたためです。ちなみに金地は余白じゃないとされたので大丈夫です。水墨画の余白は塗っていないからダメなので、背景も全部塗っています。画面全部を絵の具で覆うという現代の日本画というジャンルが誕生したのですね。

このように日本画は政治的色彩が強い世界です。欧米の政権に協力的な人が歴代の画壇の上の立場の地位に就くというのは今に続いており、外国で評価された作品こそが日本の美術として優秀とされます。

補足:竹内栖鳳と弟子の松園 京都画壇

竹内栖鳳「班猫(はんびょう)」
竹内栖鳳「班猫(はんびょう)」 1924年 山種美術館

竹内栖鳳(たけうちせいほう)はまるで生きたような動物画を描く卓越した絵師で、戦前の京都画壇を代表する人です。水墨画とやまと絵の折衷的な様式で、色や空間を使っているのが特徴です。弟子に女性の上村松園がいて、彼女は栖鳳の助手ですが、彼女の絵がものすごく支持を得てファンが多くなりました。

栖鳳は水墨とやまと絵を折衷的に達者な筆づかいで描きましたが、弟子の松園の人気に、最晩年についに折れてやまと絵風(松園風)の絵に転向した作品をいくつか残しています。松園の息子は3代にわたり、現代に至るまで京都画壇の最長老として今も生き続けています。

■龍(ドラゴン)は要請があればみんな描いた
お寺などの天井画に描かれる事もある龍は当時の絵師は必ず書いたそうです。
→長谷川等伯の龍虎図屏風など
今度はテーマ別にまとめてみるのも面白いかも知れませんね。

参考・出典

・「日本美術史」など数冊
・それぞれの作家ごとの解説書、展覧会図説
・GHQの文化政策 参考
・展覧会のパネル説明文。(山種美術館など)

 
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