美術の教養を身に付けて作品を見る目を養い、創作に活かそうという趣旨の美術の時間。今回は西洋美術の風景画についてざっとまとめます。
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風景画の大元はクロード・ロランに遡る。
風景画の歴史は、ルネッサンス〜バロック期にクロード・ロランという画家の影響がとても大きいとされています。彼は画面に光を描き始め、もちろん当時は歴史画の体裁をとって画面の一部に物語の登場人物が小さく描かれるなどしていましたが(古典主義の影響)、風景が9割、人物が1割と比重を逆転した作品を作りました。
これが当時の人々に大ヒットし、ヨーロッパ中に風景画が流行し、イギリスに運ばれ実際の庭園となっていきました。クロード・ロランの描いた風景がイギリス庭園の元となったのです。
バロック期(17世紀)の特徴は古代趣味として廃墟を描いたものが多く、これは後のロマン主義に繋がっていきますが、同様にニコラ・プッサンも風景画を描きました。彼は四季を描く中で人物をとても小さく配置しました。
プッサンの場合は7割風景、3割人物といった感じでしょうか。
クロード・ロランの風景画はインテリアとして絵の定番になっていきます。それまでヨーロッパのお城は戦いの場という印象でしたが、徐々にお城が住居としての役割を持つ中で、クロード・ロランの風景画は城内を飾るインテリアとしての価値を持つようになりました。
イギリスの風景画の歴史 帝国主義という背景
イギリスの風景画の場合、帝国主義の影響があります。イギリスは世界中に植民地があったため、地勢図の需要が高まっていました。カメラがまだ無かった時代、風景を報告する必要があったために士官学校の中に風景画が基礎教育として入ってきて、基本科目として扱われていました。言ってしまえば、元々スパイ・偵察用として風景画があったわけです。
風景画は携帯がしやすく、持ち運びしやすい水彩画で描くことが基本とされ(油絵は道具が大きく持ち運びに向かない)、18世紀になると一般教育にまで普及し、19世紀に女子教育、基本教育にまで発達していきます。イギリスの風景画と水彩の道具が発達した背景には当時の帝国主義があったわけです。
そんな流れで登場した画家にウィリアム・ターナーがいます。ターナーはそれまでの忠実な水彩画、地勢図としてのイギリスの風景を描いた作品からスタートし、徐々に光と大気、空気感を演出する要素を取り入れ、独自性を発揮しました。
風景画は国民全員が関心を持っていて、受け手が多く居たため成立しました(見知らぬ土地を知りたいという欲求があったのでしょう)。
クロード・ロランとターナーの違いは、クロード・ロランがインテリアの装飾画として室内照明にマッチするように大きく描かれた(手前が暗くなる)のに対して、ターナーはスケッチを基本として絵の大きさも小さく描かれていました。ターナーも当時の流行であったクロード・ロランに憧れていた所もあって、クロード・ロランにそっくりの絵を描いたりもしています。
オランダの風景画 市民が自分たちの風景を描いた
オランダは早くから王政が引っ込み、市民の権利が根付いたため、市民の日常生活や風土、市民社会を描いたものが多くなっています。市民が自分たちの風景を描いたものがオランダの風景画です。特に海運業が盛んなので海洋を描いた作品が多いですね。
オランダの画家といえばブリューゲルやフェルメールなどが有名ですが、ロイスダールは風景画家の中では有名で、殆ど人物がない、人物を描かない作品も残したりしています。
他にもレンブラントは特殊で、例えば「3本の木」の風景など、どこか宗教画の寓意を含ませたりしています。
風景画が成立するということは、市民社会が成熟し市民の受け皿・需要があったと言うことです。受け手がいないとメディアとして成立しません。
ただ、そもそも風景画を独立したジャンルとして扱うのかについてはまだまだ論争があります。印象派のモネの「睡蓮」も風景を描いているから風景画に入りますし…。とりあえず風景画で大人気となったのはクロード・ロランということを抑えておけば、いつかイギリスに行ったときに庭園を見る目が変わるかもしれません。
参考・出典
・「風景画論」ちくま学芸文庫 ケネス・クラーク(Kenneth Clark) 筑摩書房;改訂版 (2007/01)