アメリカのアートを考える時に、実はアメリカの写真芸術とはきっても切り離せない関係にあります。今回はアメリカのアートとしての写真についての知識をまとめます。
目次(Contents)
アメリカでの写真芸術の始まり。アルフレッド・スティーグリッツは外せない。
アメリカの写真芸術を語る上で、アルフレッド・スティーグリッツは外せない存在です。時代としては20世紀の初頭、19世紀の最後の1885年とか1890年ごろ、写真の技術が彼を経由してアメリカに入ってきました。
スティーグリッツは実業家の息子で、いわばおぼっちゃん。ベルリンに留学をしてその時にカメラを初めて手に入れます。光学系の大学に留学し写真を始めました。彼はヨーロッパが好きで、ヨーロッパに居着くうちにだんだん写真が上手になっていきました。
写真は当時の最先端の流行りでありました。ただ、その時はまだ写真というアートのジャンルはありません。そこで、当時最も新しい印象派の画面を写真で表現しようとしました。印象派の特徴は同時代性にあり、自分の時代を取材して、そこをモチーフに絵作りをしていくものです。
同時代を描くところに芸術でいう常にある新しさを主張したのですが、それを写真で表現したのです。具体的には、ドガが描いたバレエの踊り子みたいなシーンを舞台裏で撮影したり、シスレーの風景画みたいなシーンを写真で撮りました。
スティーグリッツはそのままヨーロッパに居ようとしましたが、実業家の父親が会社を継げ、というのでアメリカに帰国することに。アメリカでも写真を続けたいと思ったスティーグリッツは写真のグループを結成したり、ヨーロッパの写真を紹介する雑誌を発行したりしました。常にヨーロッパへの憧憬がありました。
ヨーロッパの憧れからアメリカ独自の写真へ。
自分たちの写真を発表するためのギャラリーを開こうとしましたが、写真だけでは人は集まりません。そこでヨーロッパで撮られたヨーロッパ人の写真や、ヨーロッパの美術動向なども同時に紹介し、自分たちの撮影した写真は絵画に匹敵するものだとしてギャラリーで写真を絵画作品のように売ろうとしました。
ピクトリアリズムとは、記録性としての写真では無く、写真は絵画の一手段という考え方です。例えばドガやボナールは写真を元にした画面を油絵にして、印象派の絵画作品として発表しました。一方で今度は逆にドガなどの画家の絵を写真にとって、背景をぼかしたりして絵画っぽい写真が作られていきます。
写真で日常をとって絵に直したアメリカの画家にノーマンロックウェル(Norman Rockwell)がいます。
彼はスタジオでモデルを雇って場面を作らせ写真を撮り、その写真を元にして絵を描きました。ロックウェルはスタジオ写真を使って現代を寸劇、ストーリーとして演出して表現したのです。
写真理論はアメリカ、カメラ生産技術は日本
芸術としての写真に関しての理論はアメリカがトップレベルです。日本は工学・物作りの分野でのカメラ生産技術は世界でもトップレベルですが、理論については遅れをとっています。これは日本の場合、写真に理論を持ち出すと、一般のユーザーが離れてしまうからと考えられます。カメラメーカーが理論的なものを前提に出さないようにしており、彼らがスポンサーの写真賞では旅行や日常生活でのスナップ写真のような作品に賞を与えています。日本の場合は芸術というよりかは日常使いとしてのカメラ・写真表現に終始している感じです。
アメリカの場合は日本のようなカメラメーカーが不在なので、写真は写真として、純粋な写真芸術として勝負する土俵があります。
20世紀初頭のヨーロッパの最新の美術動向とフォーマリズムとアメリカの写真芸術
20世紀に入ろうとした時代、当時のヨーロッパ最新の美術動向は後期印象派(ポストインプレッショニズム)でした(印象派ではないことに注意)。画面の自立を訴えセザンヌを始まりとした造形主義の作家であるピカソやマチスらを紹介しました。
スティーグリッツは写真家としてこうした美術のトレンドを写真に置き換えて語りました。画面の自立は写真に置き換えるとレンズ、カメラ、印画紙に基づいた造形となります。スティーグリッツは最新の美術流行を写真に置き換えていきました。
アメリカの写真芸術は基本的にフォーマリズムでした。フォーマリズムとは形式主義のこと。最新の物を扱うのが芸術とする見方を前提に、用具、用材、筆、描く行為、対象に依存しない、規定材、メディアを成り立たせている用具、用材の活用によって、画面を満たすことが是とされました。セザンヌやピカソ、マチスらに共通するものです。写真で表現したいのは時代の息吹や流れでしたが、表現手法が形式主義という特徴がありました。
ロダンの作品の特徴とジョージアオキーフ。表現主義について。
スティーグリッツはセザンヌやピカソらの紹介と同時にロダンの晩年の作品、彼のクロッキーを展示することも行いました。そこで発見したのは、描かれる対象と作者ロダンの気持ちでした。言い換えるなら、作者の気持ちの現代性ということを画面に持ち出しました。作品というのは対象の現代が描かれるだけでは無く、作者の現在が描かれるとする境地です。
それで、スティーグリッツの有名なジョージアオキーフ(自分の愛人)の写真集が生まれます。唯一のスティーグリッツの完成した作品と言われており、全て違う顔をしているのが特徴です。この作品で訴えたかったのが作者とオキーフとの関係であり、作者の気持ちが日々変わっていくことの記録でした。
表現主義とはこのように作者の感情を造形によって表現しようとしたものです。同時代性という観点でも作者の今の気持ち(焦りや焦燥、恋慕など)を表現するのも同時代性となります。作者もその時代の人だから、ですね。
アメリカの写真を形成する3つの流れ。フォーマリズム、エクスプレッショニズム、ジャーナリズム。
アメリカの写真はフォーマリズム(モダニズム)とエクスプレッショニズム(表現主義)、ジャーナリズムの3つによって成立しました。
フォーマリズムとは形式主義のことでモダニズムとも呼ばれます。グリンバーグ(Wiki)ら評論家が押し進めたモダンアートはフォーマリズムだけを追求し、作者の現在は問いませんでした。
表現主義とは作者の感情を画面の造形で表現しようとしたものです。
スティーグリッツの立てた美術論を現実の形にして行ったのはフォトジャーナリズムです。ちょうど写真雑誌の時代になり、ジャーナリズムフォトが成立しました。世界恐慌があって、アメリカ政府が写真家を公に被災地に派遣するようになりました。ウォーカー・エバンス(Wiki)やドロシア・ラング(Wiki)みたいなジャーナリズムフォトの作家が生まれ、貧しい人々、困窮している人たちを世界中に発信し、名作を残しました。
スティーグリッツの活躍。アメリカ美術の面白さは成立の過程で写真を通過したこと。
スティーグリッツがいないと、それぞれの派閥に分かれてしまうだけで、例えばシュールレアリストはシュールレアリズムしかやらない=ドキュメンタリーはつくらない、フォーマリストは三角などの幾何学的なものしかやらない=具象を入れないといったように専門分化していったでしょう。
スティーグリッツはヨーロッパを紹介するその時期におり、時代の流れを写真で捉えようとしました。例えばオキーフの写真集などで、写真に何ができるのかを確かめ、写真芸術を発展させました。
アメリカ美術の面白さは美術史の中で写真を通過したことで、写真が現代を表現する手段であるという美術上重要な位置づけを手に入れたことです。ヨーロッパではそういうことは起こりませんでした。なぜかというと、ヨーロッパは原理原則論ばかりで、表現の時代性に至らなかったからです。時代を記録するのは記録性としてのドキュメント写真であり、○○年にこういうことが起こりました、で終わってしまいます。表現として写真を美術の流れに載せたのがアメリカ美術の面白い所と言えます。
フォーマリズム(形式主義)とエクスプレッショニズム(表現主義)とジャーナリズムの3つの要素がなければ、アメリカでは写真が評価されません(日本はこの点別個で捉える傾向がある)。これらを統合して成立させたのがアメリカの独自性で、写真を芸術作品だというアメリカの根拠となります。
写真芸術の要件満たしていれば、それを絵にすることも可能になります。
ニューヨークという世界で最初に摩天楼が出来た国アメリカは、新しい現代文明が発達していく最先端の町としてのプライドがありました。ニューヨークは自分たちのアイデンティティ、ヨーロッパではないアメリカ、現在未来へ進んで行く最も現代的な国という意味合いがあり、ヨーロッパは過去に生きる国として解釈されました。時代性を重要視したのがアメリカであり、そこからジャーナリズムが生まれてきます。アメリカだからこそ現代を構図とか明暗で構成できる写真という新しい表現が使われた、という部分もあるでしょう。
アメリカの写真と日本の写真の比較考察。日本で評価される写真は土門拳とか入江泰一など時代を象徴する写真。
日本では時代を象徴する写真が好まれます。
土門拳(Wiki)の凄さは人物の中にそのが背負った時代の役割を移し込んだところです。アメリカとはちょっとニュアンスが違うのは、被写体の姿勢です。土門拳が被写体に対してどう思ったなどの撮影者の意図は排除され、この人がその時代の中でどういう役割を演じるようになってたのかを表現しています。
土門拳は一枚の写真の中にこの人は大作家であるとか、政治運動化であるとか、新進作家とか、奇抜なアイデアを持った人などの被写体が持つ社会のポジションを伝えようとしました。常に社会が背後に控えているのですね。時代を表現するのが写真で、時代の捉え方がその時代を生きる人それぞれ違いますから、それを映したわけです。
一方でスティーグリッツは撮影者の現在も画面に入れようとします。
日本のリアリズムもローレンス・アルマ=タデマまで行けば凄い
日本のリアリズムとされる作品が単なる写真模写にとどまっているのは、写真芸術のジャンルまで昇華しきれていない、単なるカメラの画像を陰影だけ追ってコピーしているに過ぎないからです。絵の元となる写真画面が不足していると、芸術としての深みのある写真絵画は成立しません。
日本でもテレビなどで見るホキ美術館にあるロブスターなどの絵(参考)は曲芸、大道芸、蝋人形館の絵画版といった感じでアートとしての写真ではなく曲芸としての写真模写技術をよく表しています。
ちなみに写真表現の究極だと思うのがローレンス・アルマ=タデマ(Lawrence Alma-Tadema)(Wiki)です。
実物は小さい画面ですが、とにかく超絶技巧の人で貴族にも列せられたといいます。ただ、彼の問題点としてはケネスクラークの「ザ・ヌード」に描かれているように造形の伝統を無視して、シーンを表現するだけだった事があげられています(人物のトルソ(胴体)などは、なんの伝統も含んでおらず、フォルム自体に苦悩とか、喚起とかの形としてのトルソ伝統があるのにそれを無視しているということ)。
アルマ=タデマは写真的なフォルムで、日常の人物が普通にしているポーズ・形を組み合わせて古代世界を描こうしているのだけど、フォルムに対して造形性を認めていない、単なる写実・超絶技巧だけで画面を描いた作家です。例えば地中海では大理石はカビませんが、大理石がカビている画面を描いたり、実際の古代にあった花ではなく、自分たちの時代の花を描いています。彼の描いた世界はぱっと見古代ローマ時代の再現みたいで面白いですけれど、実際は古代のコスプレを描いています(ポーズが現代のもので、古典主義では無くなんちゃって古典主義。でも一方で作者の同時代性(現代性)は含まれている)。でも超絶技巧で画面や雰囲気を作り出す能力はダントツであるのは疑いようがなく、もし現代に彼が生きていたら一流のコンセプトアーティストとして活躍しそうです。