先日2018年11月26日(月)に東銀座ドワンゴセミナールームで行われた黒川塾64「ゲーム産業のあれから20年、これから20年」に参加してきました。二人の業界で長年活躍する社長からゲーム業界の話が聴け、特にゲーム業界を希望する人には為になる回という印象でした。今回はそのまとめ体験レポートです。
目次(Contents)
ゲスト
・須田剛一(Wikipedia) 株式会社グラスホッパー・マニファクチュアCEO ノーモアヒーローズなど
・松山洋(Wikipedia) 株式会社サイバーコネクトツー代表取締役社長 .hackやNARUTO系のゲームなど
主宰:黒川文雄 黒川塾主催、メディアコンテンツ研究家
はじめに
今回は20年をテーマにゲストを呼んだそうで。創立20年にあたるレベルファイブの日野社長も誘ったそうですが、年内には動けないから、と断られたそう。まずはゲストに来ていただいた須田剛一さんと松山洋さんのゲームとの出会いについての話が聞かれました。
ゲームとの出会いと影響
須田:当時ビデオゲームというものがまだなくて、タイトーさんのセロハンとかレースゲームとかおみくじとかで遊んでいた。いちばんの衝撃はボーリング場に置いてあったATARIのスターウォーズ。子供心に衝撃を受けた。アメリカのゲームやベクタースキャンといったものに痺れ、影響を受けた。
須田さんは他にもド派手なアメリカンプロレスに衝撃を受け、根っこにはアメリカへの憧れがあるのだとか。他にもイギリスのUKロックにも影響をうけ、青春時代の感受性が養われたそうです。アニメからの影響も多く受け、ガンダムでアニメをスタートしてから、須田さんはアニメディアとかアニメを語るメディアも全部読んでいたとか。アニメの奥深さとか、当時はスター作画監督さんが描く作画も好きで影響を受けたそうです。
松山:ゲームはゲーセンとか喫茶店とかで触っていた。クレイジークレイマーとか。まともに触れたのはファミコンから。うちに初めてファミコンが来た時にマリオブラザーズをやった。人と遊ぶ面白さが原体験。テレビは一方的なものだったが、ゲームを介して画面を動かせるのは驚きだった。ただ、自分としてはゲームは普通ぐらいで、なんだかんだで「漫画>映画>ゲーム」の順で好きなんだな、と思っている。6歳の頃から少年ジャンプを欠かさず毎号1ページずっと読み続けているぐらい漫画が好き。
松山さんはジャンプを中心としたマンガやアニメ、特撮、戦隊ものから強く影響を受けているとのこと。ビデオデッキがない時代、学校から走って帰らないと夕方からのアニメが見れないため、高校時代「魔神英雄伝ワタル」を見るために走って学校と家を往復したことで基礎体力がついたそう。
ファミコンブームについて
松山:中学でファミコンと出会い、ファミコンブームが起きた。みんなファミコンを持っていた。高価でそんなに買ってくれないから貸し借りをしていた。ドラクエっぽい「ハイドライドスペシャル(参考)」をプレイしたが、高尚すぎてやっぱドラクエがいいとなった。ドラクエがすごいのは、RPGをみんなにわかりやすいように食べやすく料理された作品として出したこと。
当時ゲームは高価で、体験版もないから駄菓子屋の10分レンタルなどで試していたそうです。親に買ってもらったソフトもハズレを引いてしまうと、親の目もあるし、次にソフトを買ってもらうために、つまらないソフトでも泣きながら(楽しいフリをして)遊んでいたという(松山さんが当時つかまされたソフトがこれ)。
須田:ゲームにハマったのは高1か高2の時。青空市場でみんなでソフトを買っていた。ほとんどの人間が「スーパーマリオブラザーズ」を買う。スーパーアラビアン(参考Amazon)っていう今のサンソフトさんが出しているものをゲーセンで遊んだことがあって、ムニョムニョ動いて1ヶ月ぐらいで店頭から筐体がなくなったので勝手に伝説のソフトと思っていた。ファミコンで7.8千円したファミコン移植版を高校生の頃買って、、大きな失敗をした。財産捨てたようなもの。(つまらないから筐体が無くなっていたのが事実)
テレビとの付き合い
須田さんは上京する際に、千葉にも住んでいて、見たことないテレビがいっぱいあることに驚いたそう。ずっと1日テレビの前でリモコンをいじってテレビのコンテンツから影響を受けたといいます。
お二人とも当時のテレビから影響を受けて、少ない娯楽の中でもテレビの影響は大きかったのだな、と印象に残りました。裏番組という名前も、地方は2つのチャンネルしかないから裏とか表と言っていたところから来ているかもしれないとのこと。
須田さんのゲーム業界入りへの経緯
須田さんは好きだったアパレルをやりたいというもわっとした漠然としたイメージを持っていて、ヒューマンというゲーム会社に入る前に、東京デザイナー学院の服飾科に行きました。当時はバンタンの方がレベルが高く、願書を出したものの落ちてしまったそう。今ではバンタンの講師をしているからリベンジは果たせた、と笑いながらおっしゃっていました。でも型紙づくりやミシンもできないので、一年も経たずに通うのを辞めて、いろんな仕事をしたそうです。その中にはご葬儀のおくりびとの仕事も。毎日ご遺体と会う、死と向き合うためそのことが今のゲームづくりに大きく影響しているそうです。
須田:(葬儀の現場で毎日ご遺体と向き合っていると)死というものの感覚がわからなくなっていく。だから自分は人をぶっ殺すゲームばかり作っているのかもしれない。死というもんをちゃんと描こうと。ゲームはデジタルで0と1の世界だけど、僕のみてきた現実というものをゲームという世界でもきっちり重いテーマも描こうとした。ゲームにおける死は軽くないということをちゃんと描きたい。
松山さんのゲーム業界入りへの経緯
松山さんは最初はコンクリートの二次製品メーカーに勤めていました。出身の九州産業大学はエンタメ系、芸能系の人間が多く、ナルトの岸本さんなど漫画家も排出しているそう。その多くは大学を中退して、在学中に上京をしますが、一年かそこらで帰ってくることも多かったそう。そのため松山さんはちゃんと大学を出て、きちっとしたルートでまずは社会の仕組みを見てみようと考えたそうです。社会の歯車の中で個人・チーム・会社のそれぞれの段階での努力の壁(努力でここまでは出来るという境界。)を一通り学んだといいます。
松山さんは大阪に転勤している時、大阪ドームの仕事をすることになったのですが、その時大学の漫画研究クラブの同級生がタイトーに就職していて、ソニーが(プレイステーションを出した勢いで)支援してくれるというから、一緒にゲーム会社をやろうぜっていうことになったそう。当時はソニーに限らずスクエアなど大きな会社が資本を出して小さい会社を設立しゲームを作るという流れが盛んだったといいます。サイバーコネクトもその支援された会社の一つでした。友人が先に始めた会社で、松山さん以外の全員はタイトー出身。彼らもすぐにタイトーを離れるわけには行かないので、時間差で退職し、サイバーコネクトに集まったそうです。
サイバーコネクトは最初はデベロッパーとして独立。中小企業を応援する福岡県の支援もあり福岡県で始め、安い部屋を貸してもらえたといいます。当時のサイバーコネクトは全員開発者で、営業も宣伝もないし、全くの白紙の状態で苦労したといいます。インターネットで企業さんとコネクションをつくろうも、当時はまともな企業ウェブサイトが一つもなかったそうで。電話番号もなく、eメールもない。ユーザーサポートでお願いするしかなく、大変だったとのこと。
松山:なんの後ろ盾もない、なんのパイプもない状況。自分たちの職務経歴書を会社の下にあったファミマのコピー機で印刷し、十数社送った。7社帰ってきて、最終的に3社残って、1社は仕事をするのはいいけれど、あなたたちは経営のプロではないでしょう、経営は任せて安心して開発に集中するために、資本金入れさせて、子会社にならないかと言われたけど、作ったばかりの会社でそれは勘弁して。と断った。もう一社は完璧な仕様書つくるまで金は一円も払わない態度だったので、資金不足のため断念。結局はもともと玩具屋だったバンダイに助けられ、バンダイはゲームができたら見せて来て、という態度で、お金を先に払ってくれて、自分たちを信じて投資してくれた。
須田さんの独立秘話
ヒューマンで4,5年ゲームを作った後、98年独立した須田さん。当時のゲーム業界は全体的に閉鎖的で、インタビューも顔出しせず名前もださないのが暗黙のルールでした。名前を出したら引き抜きがあることを恐れる空気で、全員ハンドルネーム。(「ぽこにゃん」とかふざけてるの?と思った名前もあったそう。)
そんな時代が変わったのがプレイステーション時代。クリエイターの名前が出るようになりました。横のつながりも全くない時代でしたが、須田さんはアスキーのゲーム事業部の支援に助けられたといいます。
しかしその後アスキーのゲーム事業が全撤退。発売が未定なままマスターした作品があって、パブリッシャー不在の状態に。そこで須田さんは初めて社長として営業をしたそうです。その時もアスキーの担当だった人たちが、手伝ってくれたそうで。仕事を取らなければ仕事がなくなる状況。自分で当たったり、名前もヒット作もないので、業務経歴書を手に、「一本作れますよ」と足で回ったことが初めての社長業だといいます。
須田さんのグラスポッパーはいろんなパブリッシャーと組んでいて、一番しんどい時に組ませてもらったのはセガとバンダイだったそう。サムライチャンプルー出してもらった時に、バンダイは最高!だと感じたそうです。
20年のなかで感じている人生を変える出来事
この20年の中で感じた人生を変える出来事について訊かれました。須田さんにとって震災の影響はとても強かったといいます。
須田:2011年の震災で価値観が変わった。グラスホッパーには当時21人の色んな国籍の外国人がいたが、3.11の地震のタイミングで10人以上帰ってしまった。残ったのは10人以下。このままゲーム作っていいのかな、と思った。日本人の価値観を揺るがすような出来事で、ゲームという出来事・経験、ゲームに価値があるのかなぁと思っていた。自分は特に血の出るゲームばかり作っていたので「エンタメに力はあるのかな?」自問自答した。マンガ、音楽、映画が2,3年見れなかった。現実じゃないモノが入ってこなくなり目の前にあるリアルが大きすぎたために非現実的なものが受け入れられなくなった。
松山さんは自分が社長になり、サイバーコネクトツーになってから大きく人生が動いたそうです。
松山:前の社長がいなくなって、自分が社長になったことが一番大きい。これから先、自分の人生も変わっていくだろう、と思った。災害とか地震とかは一杯あったが、自分の場合は大阪で仕事していたとき阪神大震災がきて、まるで映画のようなことが目の前で起きた。こういう理不尽なことは生きていたら起きるものだと学んだ。ただ、そういった事件が起きた時こそ、我々が出来る事はその人達の笑顔を作るためにエンタメを作ることだと思う。
あと松山さんは少年ジャンプがとにかく好きで、17年前に初めてジャンプ編集部に入れて貰えた時が最も興奮したそう。仲介してくれたバンダイに怒られるほどジャンプ編集部と個人的に親しくなっていったそうです。「松山洋」という名前が世界に知って貰えたのはNARUTOのゲームのおかげだといいます。
須田さんは海外からの人気が高いクリエイターですが、e3を体験した時にこのままではいけない、と奮起したとのこと。
須田:キラーセブンの少し前に、e3を体験して、e3ってアメリカのこんな所にビデオゲームの中心があったと目の当たりにした。この場所に自分の作ったゲームが一本も出ていないことがショックだった。「全く別の場所に俺はいたんだな。」という感覚。この中に入るようなゲームを作りたい、と本能的に思った。色んな所にご挨拶に行き、チャンスの一つでも作ればいいと思って。自分たちはゲームを作ってきたが、そもそも試合に出れていない状態、負けたと思った。これは1からゲーム開発を考えなければいけない。自分の中でのE3ショックとも言える出来事。自分のゲームを世界で知られるようにしたい。当時のグラスホッパーではそのチャンスを作るのが難しかったが、ひょんなこと(紹介)でカプコンさんのキラーセブンに携わることができたのは幸運だった。
創作の秘訣は大量につくること
お二人ともヒット作を作る前にもの凄い数の企画書を作っているとのこと。ボツ企画も山のようにあるとか。
松山:企画は一発では当たらない!ヒットした作品があると天才のように一発で上手くいった企画が出来るように見られるが、全然そんなことはない。大量の屍の上に成り立っていることを皆さんに認識して貰いたい。
須田:(どうにも行き詰まった時には)ラブひなの企画書も作ったほど。もちろん企画を書くからには一生懸命勉強して、マンガも読んで。何でも良いから仕事いただきたいと思って努力を積み重ねた。
どの辺でブレイクスルーが起きたのかは、須田さんはキラーセブンとノーモアヒーローズが結果的には知名度の向上につながり、松山さんは.hackが日本で、世界はナルトのゲームを手がけた時だそう。
イラストレーターを安易に目指すな
話は松山さんの書いたnoteの「イラストレーターを安易に目指すな」に。意識喚起のために書いたそう。ゲーム会社の社長という仕事柄、全国の専門学校を回ってその学校の先生達との飲みに行って話を聞いているとのこと。
ゲームコースへの志望者は減っており、原因はみんなにゲームの仕事がどういう仕事か知れ渡ってきた背景があり、特殊技能が必要でハードルが高いことが避けられる理由とのこと。凄く大変らしいから…という消極的な理由でゲームコースを避ける学生が多いのだとか。
一方で、今増えているのがマンガ&イラストコース。マンガは発表の場が増えているのでいいのでは?と思っていたら、マンガではなくイラストレーターを目指す人が多いのだとか。マンガはお話を作るのが大変そう…ということで、これも消極的な理由で避けられているそう。一方で、イラストレーターはただ一枚絵を掛ければいいから、楽だからという理由で志願者が増えているとのこと。
さすがにこれはイラストレーターという職業をなめている、そんなに甘いものじゃない、と伝えるべきではと思うも、学校側は言えない事情があるそうで。保護者から、「うちの子に現実をつきつけないでください気持ちよく夢を見させてください。」とクレームがくるそうです。それなら自分が言おうと松山さんはnoteに記事を書いたとのこと。
どんな人と仕事をしたいか
この流れで、どんな人と仕事をしたいのかについても訊かれました。
須田:面接をしていても、そんなに応募は来ない。履歴書で切ってるかも知れないけど…。うち(グラスホッパー)のゲームが好きじゃ無いと務まらないと思う。そこは気にかけて選んでいる。熱量が無いとそもそもの段階で同じ現場で仕事は難しい。
須田さんの会社はグラスホッパーの作品をしっかりと遊び込んで好きになることが前提のようです。
松山さんは自分が目立つタイプだから、色々と誤解を受けている事を認識しており、自分と違うタイプの人間が集まらないとチームとして成立しないということを言っていました。
松山:意外とみんな普通。ハードルもそんなに高くない。普通のことしか求めていない。ただ、今はその普通の事すら出来ていない。例えば、プログラムの基礎が出来ていない。ほとんどの人が。でも僕らの仕事は基礎の向こう側をやらなくてはいけない。応募してくる人の多くが基礎が出来ていない。僕たちはの世代は、自分たちでゲーム作りがやりたくて始めた世代。今は何かに渇望する、枯渇した時代でもない。その会社のゲームが好きだから、という理由だけで応募してくる人が多い。会社に参加する事に意味があると考えてしまう。その会社に入れば自分を変えてくれる、給料も貰える上に、自分を成長させてくれると思っている。それは逆だと思う。会社は給料を与える代わりに、あなたがどういう力を発揮してくれるのですか?を求めている。もちろんそのための教育は与えていく。
松山さんは受け身の志願者や基礎が出来ていない志願者が増えているのを問題認識していました。
これは、今は自動的にタイムラインが流れてくる=与えて貰う時代で、自分から積極的に何かを求めるのではなく、流れてきたモノから自分の気に入ったものを取捨選択するような受け身の時代になった背景もあります。
今の人達は金持ちになりたいとかよりも、とにかく人と争わない、人と喧嘩しない、自分だけやり玉にあげられたくないといった自己防衛が強く働いているとのこと。
業界の先のことは「分からない」が真理
お二人からこれから先のゲーム業界のことについて訊かれました。
松山さんは、ファミコンブームの時、これから先の業界は任天堂がムーブメントを引っ張っていく、と思っていたそうです。しかしソニーが出てくるなどゲームが段違いで進化して…。
松山:次はどれが天下を取るのかと考えていたら、まさかのスマフォが天下を取ってしまうとは。これから先どうなるかずっと分からない。20年やってきて分かったのは、1強は続かない。これから先はわからない。絶対に大きく変わっていく。
須田さんは柔軟に時代のプラットフォームに合わせたソフトを作り続けていきたいとのこと。
須田:おもしろいプラットフォームは何でも作る。どのプラットフォームでも作っていく用意をしている。まずはチャレンジをしてみて、自分たちに向いているかどうかを試す。プロレスラーとして何でも来いみたいな精神。
お二人とも他の業界(映像、出版など)やメディアとコラボして一つのIPを様々な商品に派生させていくことや、海外で売っていくことを前提に開発をして行くことを意識していると言っていました。いろんな人達と協力して、一つのブームメント、うねりをもたらしたいとのこと。周囲を巻き込む力(企画&商品)、というのがキーとなるそうです。
エンターテイメント業界を目指す人に向けて2人からのメッセージ
最後にエンタメ業界を目指す人達に向けてのメッセージが訊かれました。
松山:自分が求めるのはシンプルで、「これが好き」を持っている人と仕事がしたい。少なからずみんな何かしらに夢中になっているものがあると思う。中途でも新卒でも、「入れてください、何でもやります!入社させてください!」はだめ。どういうヤツか分からないから、具体的に何をしたいのか言って欲しい(それがないとこちらとしても指示が出せない)。それが言えない人は「君は自分を出すのが下手だから不合格です。」って言わざるを得ない。
それのマインドさえあれば今技術が無くても良い。みんな消去法的に「好き」を選んでいると思う。自分の好きで勝負すればこれだけ簡単な業界はないと思っている。もっと軽い気持ちで、勝手に業界のハードルを高く上げないで欲しい。自分の好きを試して欲しい。
松山さんからは自分が好きなもの、情熱を持てるものを大切に、その分野で勝負してみろ、というエールが聞けました。
須田:今業界に居る人を見ていると、みんな特殊技能を持っている。人間としてはダメ人間だけど、ある技術で一点突破できる力を持っている。器用貧乏は必要なくて、あるジャンルに対して凄く詳しくて、これを任せればこれができる、という人が求められているのがゲームという現場。それを磨いて欲しい。もちろんいろんなものに興味を持って欲しいし、自分の文化圏の外にあるもの手に取って感じて欲しいが、「これは自分にとっての武器」という武器や必殺技のようなものが在ればOK。
須田さんからは何か飛び抜けて一つの武器、必殺技みたいなものをもてば業界で活躍できるとの話が聞けました。
質疑応答
■松山さんのイラストレーターを安易に目指すなと言うnote記事の反響について。
松山さんがnoteでかいた「第115号『イラストレーターを安易に目指すな』」が大変な反響があったそう。それについての質問。
イラストレーターに限らず、服飾などでも同様で、何となく専門学校に入ってきている人達が多いそう。世の中で自分を出していき、戦っていく気概を持つ人は少なく、まるでタイムラインで流れてくる者を取捨選択するように消去法で選んでいる人が多いのだとか。
今の大人や学校は、生徒に本当の事を言わなくなってきて、今の学生達はかわいそうな状況にあると言います。ゆるく活かさず殺さず生殺しにされているというか。
松山さんは人に認めて貰えたときに、手応えや自信、もっと勝ちたいという欲望が生まれてくるといいます。どこかで賞を取るとか。そのために公の場に自分の作品をドンドン出すことが重要なのですが、傷つくのを恐れ自分の作品を発表しない人も多く、誰かが見つけてくれるのを待っている受け身な人が多いのだとか。
練習や作品量、とにかく物量を積んで、絶え間ない練習で能力者として目覚めて就職するしかないのに、そのエネルギーを持っている人が減っているそうです。中国から来ている留学生は家族や生活を背負ってきているから、日本の学生よりも能力や意識が高いといいます。別に就職できなくてもフリーターでいいや、という考えや、両親が子供に甘い夢を見させてやってほしい、という要求も学校側に来ているそうです。本当の事は言いにくい世の中で、言うと炎上して、「死ね」と言われてしまう。本当の事を伝えるには、鋼の心を持っていないと出来ないと言っていました。
■ゲームメディアについての質問
ライターさんの質問。ゲーム業界は変わっていったが、ゲーム雑誌は余り変わらないそうで。雑誌の売上げが無くなり、ウェブに移行し広告とタイアップになり、ゲーム雑誌は原稿料が下がったぐらいしか変わっていないとのこと。20年前と比べて、ゲームメディアに対して最近どう思っているのかについて。
黒川さんからカドカワの会議室を使っている、という前置きがありながらも、まずは松山さんからファミ通についてのことが語られました(こういう内容も平気で書けるのが個人ブログの強み)。現状のファミ通はファミ通の創立者たちや設立初期にいた人、エース級の人たちがみんな辞めてしまった現状があるそうです。今は編集長の林さんの顔しか見えないメディアになっていて、昔はこういう人たちと仕事をしている、と作っている人の顔が見えたメディアでした。ほとんどの人が派遣で来ている人?だからか、やとわれの兵隊だから魂が見えないとのこと。大きめに発表したいことは直接編集長を窓口にするしかないそうです。
結局みんなが一番見るのはまとめサイト。あれも公平じゃなく偏っているけど、一番脚色されていないという安心感持って読まれているのがまとめサイト(スマートニュースとか)だそう。
須田さんは、紙とかwebとかの台頭で活字の力が減った印象だといいます。面白い文章がどこにあるのかがネットだと分からなくなり、動画配信者の力が強まっているとのこと。中国ではメディアの力はビリビリ動画(中華圏のニコニコ動画みたいなサービス)が圧倒的。配信の場でゲーマー達が遊んだゲームが売れるので、既存のメディアはそっちに喰われているとのこと。ゲーム実況者がメディアに。彼らの力は無視できないと言っていました。
黒川さんの意見では、昔は雑誌を作っている人と遊んでいる人が一致していたが、本当の読者とリンクしていない空っぽな記事が多いという印象だそう。ウェブの方が作っている人と記事が一致している印象とのこと。
■サイバーコネクトツーの漫画家社員について
松山さんが社長を務めるサイバーコネクトツーの漫画家入社についての質問。サイバーコネクトツーでは漫画家採用をしていて、元漫画家社員が多いそうです。漫画というメディアを活かした取り組みをこれからも力を入れていくとのこと。
感想
満足度 ★★★★★
実は私はお二人の作るゲームを一つも体験したことがないのですが、実際にゲーム業界を生き抜いてきた二人の話や社長として営業活動などどう立ち振る舞ってきたのかの話などは興味深く、刺激になりました。不思議体験アンビリーバボーで特集された松山さんの.hackは名前だけは知っていましたが、今度須田さんのノーモアヒーローズなどお二人の作るゲームにも実際に触れてみようと思います。
創作の秘訣について「とにかく物量をこなす」ことが大事で、企画書を書きまくっているという話は、以前「オリジナルズ」の本の中で得られた気づきと共通しています。天才は単に作品を作る量が飛び抜けて多い、という話です。
あとは一点突破できる、自分の軸となる武器を持つことについては常々感じていた核心をついており、私としても耳が痛い話でした。
松山さんが現地で自分の本の物販をしていて、営業の勢いで彼の本を2冊買ってしまいました。今度機会があればレビューしてみようと思います。
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参考リンク
・グラスホッパー・マニファクチュア(須田さんの会社)
・サイバーコネクトツー(松山さんの会社)
・黒川塾64概要ページ(https://peatix.com/event/453276)