今回は私が大好きな任天堂に関しての本をまとめます。本書は2008年前後のWiiとDSで勢いづいた任天堂の、そこに至るまでの経緯や経営哲学を包括的にまとめた唯一の本です。本書を入手したのはずいぶん前で、ブログを開設しようと思ったときから記事でまとめたいと思っていた一冊です。
娯楽企業としての任天堂はどのようにして生まれたのか。そして浮き沈みの激しい業界をどう生き抜いてきたのか。本記事では本書から学べた任天堂を地方の花札屋から世界的企業に育て上げた故・山内溥(やまうちひろし)、そして次を引き継いだ故・岩田聡の考え、哲学をまとめていきます。娯楽業界に興味があるすべての人に読んで欲しい、クリエイティブに関しての気づきを得られる名著です。(敬称略)
◆書誌情報
「任天堂 “驚き”を生む方程式」
井上理(著)
日本経済新聞出版社
2009年5月11日
■本書の背景と今の任天堂
本書はリーマンショック後の2009年に出版された本です。2008年にリーマンショックで多くの大企業が沈む中、好調なのがDSやWiiでヒットを飛ばしていた任天堂でした。任天堂を世界的企業に押し上げた山内溥時代の任天堂は秘密主義でした。ゲームの自社商品のPRはするが、経営哲学やゲームと関係が無い内部の情報を外部に漏らすことには敏感でした。これは、かつてアイデアを他社にさんざん真似されてきたからだといいます。岩田聡時代になってから、「社長が聞く」や「Nintendoダイレクト」でのPRなど、徐々に外部に対してオープンな姿勢を見せるようになりました。
本書の後、任天堂は次に出した3DS、WiiUの時代に低速し、2017年3月3日発売のNintendo Switchで返り咲くことになります。岩田聡社長はSwitch発売前の2015年7月11日に故人となりました。亡くなる前にはスマフォゲームでDeNAと協業をしたり、ユニバーサルスタジオジャパンなどでIP戦略に動きだすなど、積極的に今に繋がる任天堂の改革を進めていきました。
目次(Contents)
ゲーム人口の拡大戦略 DSの一人一台構想とWiiについて
まずは任天堂が打ち出したゲーム人口の拡大戦略と「Nintendo DS」と「Wii」のヒットの背景をまとめます。
任天堂は「ファミコン」「スーパーファミコン」と「ゲームボーイ」で一時代を築いてから、「Nintendo64(ロクヨン)」、そして「ゲームキューブ」と今になって思えば性能にこだわったゲーム作りをしていましたが、徐々にSONYのプレイステーションに押され気味になります。性能や映像、グラフィックの高度化によってますますゲーム開発費は掛かるようになり、長期化していきました。しかし一般的な消費者はそれについていけず、ゲームが好きなゲーマーの人たちだけしか残らなくなったことを任天堂は問題視するようになります。
「僕らがもっと素晴らしいゲームをと頑張った結果、時間やエネルギーをゲームに割けない人たちが「もういいや」と、静かに立ち去っていたのです。調べれば調べるほど、これは本当に深刻だと感じました。」岩田聡
ゲームを老若男女、誰もが楽しめるような存在にしたい。そこで岩田聡さんは当時流行った「脳を鍛える大人の計算ドリル」の川島隆太教授にコンタクトを取り、「脳トレ」のゲームを世にリリースします。その結果これまでゲームから離れていた大人や、ゲームに元々興味が無い中高年層の人にゲーム体験をもたらすことになります。海外では、従来ではゲームと見なされなかった愛犬育成シミュレーションソフトの「Nintendogs」が爆発的な流行になりました。これがDSと組み合わさり、爆発的・世界的な流行となり任天堂の業績を大きく回復させました。
万国共通のゲーム離れという現象に、直感的なゲーム機本体の魅力と誰でも親しめるソフトという両輪で挑み、大成功を収めた任天堂。その発想は、据え置き型ゲーム機にも引き継がれた。
据え置き機のWiiも同様で、「Wiiスポーツ」は老人層や理学療法の現場でも使われることにもなりました。これまでゲームに縁の無かったユーザーを集めることに成功したのです。
岩田聡さんが言うには、ゲーム人口拡大戦略は「精魂込めて作ったゲームの手応えが変だな」と思い始めたことがきっかけだそうです。性能を重視した「64(ロクヨン)」や「ゲームキューブ」が想像していた以上に売れなかった上に、ソフト設計者への障壁が高かったのです。ゲーム離れの危機感が日増しに増加していた背景があったのです。
現代は娯楽に溢れ、時間の奪い合いになっています。人々からゴロゴロする時間が失われ、テレビの前でゲームをする人が減っていき、ゲームを卒業するタイミングも早まりました。そこで、ハードの性能ではなくアイデアでの勝負に打ち出します。これは後に述べますが、任天堂の原点回帰とも言えることでした。
「重要なのは次世代の技術ではなく、次世代のゲーム体験であり、パワーが大切なのではない」岩田聡
2画面が特徴的なDSは岩田聡さんと宮本茂(マリオの産みの親)さんがレストランで打ち合わせたときに、サラリーマンが使っていたタッチペン式のポケットPCをヒントに、「2画面にしたら面白いのでは」という発想から生まれました。この「2画面のアイデア」は山内溥社長が岩田聡さんに引き継ぐときに伝えたアイデアでもあり、二人はこの「2画面」をテーマにアイデアを考え続けていたと言います。
一方で据え多きゲーム機のWiiは「性能を追わない」「お母さんに嫌われない」発想で生まれました。技術のロードマップ(最先端技術)に沿ってハードウェアを設計するのではなく、家族の機嫌を重視したのです。ゲーム機は家族から邪魔者と扱われることが多いので、家族の誰からも嫌われることのないデザインを目指しました。その結果生まれたのが邪魔にならないDVDケース2、3個分に収まるコンパクト設計。コントローラーも家族が誰でも触れるテレビのリモコンを参考に、怖がられないデザインを目指しました。
また伝言板機能では、ゲームをした時間や得点などの「プレイ履歴」が自動的に記録されるようになっています。この履歴は、消すことが出来ません。この背景には岩田聡さんの強い要望があったからだそうです。
もともと岩田は、「親が一日一時間と決めたら自動的に電源がきれるようにしたらどうですかね」と、ゲーム会社の社長にあるまじき提案をしていた。それほど、ゲームが家族全員に関係があって健全なものであって欲しい、という思いが強かった。
そのほか、「WiiConnect24」など、家族団らんのネタになりそうなチャンネルをいくつも開発していました。常にテレビやインターネットに繋がっていることを前提とした、誰にも邪魔にならないデザインを目指したのです。
岩田聡さんいわく、「結果のために正しいと思うことをしたのではなく、正しいと思うことをしたら結果がついてきた」とのこと。正しいと思うことは「ゲーム離れを食い止め、ゲーム人口を拡大する」こと。そのために「どのようにしたらゲーム機が家族から邪魔に思われないか。家族全員に関係のあるものになるか。」ということを愚直に追求した結果がDSとWiiの成功に繋がりました。
ゲームクリエイターとしての社長・岩田聡
山内溥社長に引き抜かれ、任天堂社長を引き継いだ岩田聡さんの経歴について簡単にまとめます。
北海道出身でお父さんは室蘭市の市長を務めた岩田弘志氏。岩田聡さんは高校生時代、米ヒューレット・パッカード社のプログラミングも出来る電卓と出会い、プログラミングの世界にのめり込みました。授業中もこっそり電卓でプログラミングに励み、野球のゲームなどを作っていたといいます。その時近くの席にいた同級生の友達に見せたら、すごく喜んでくれて、岩田さんのしていることを褒めてくれたといいます。これを励みに岩田さんは人に喜ばれることの幸福を知り、プログラミングにますます興味をもったとのこと。自分のしたことを褒めてくれる人が身近にいたことがすごい幸運であったと後のインタビューや取材記事で述べられています。
高校卒業後、岩田さんは東京工業大学に入学し、工学部情報工学科を卒業。エリート街道には興味が無く、自分の熱中していたことの延長線上で在学中からアルバイトしていたHAL研究所にそのまま入社する事になりました。しかし、お父さんと大いにもめて、しばらくは一言も口をきかなくなったほど仲が悪化したそうです。
岩田さんはHAL研究所で唯一のプログラマーでした。次第に人材不足から営業やマネージャーなども兼ねることになります。ファミコンが出たとき、その凄さと値段の安さに感動し、京都の任天堂にゲームソフトの下請けの営業をします。これは任天堂にとってもソフト開発が出来る人材が不足していた時だったので願ってもないことでした。ファミコン初期の「ピンボール」「テニス」「バルーンファイト」といったタイトルを一挙に手がけます。
しかしHAL研究所はその後、バブル経済の崩壊で経営難に陥ります。その時に資金援助をしてくれたのが任天堂でした。その時、山内溥社長は岩田聡をHAL研究所の社長とすることを条件にしました。若干32歳でHAL研究所の経営者&プログラマーとなった岩田さんは、その後「星のカービィ(1992)」や「大乱闘スマッシュブラザーズ(1999)」で大ヒットを出します。
これらの名作のヒットでHALの経営は再建し、その腕を山内溥さんに買われ岩田さんは任天堂に2000年に中途入社することになります。2年後の2002年、岩田さんが42歳の時に山内溥社長に後継として指名され、任天堂の社長に就任します。
任天堂に入った岩田聡さんは、新卒で入った訳ではない(生え抜きではない)外様社長であることを意識して、まず全ての部長と開発部門の社員一人一人と面談をしました。積極的に社員と交流を持つようにしたのです。
ゲームを愛し、現場をよく知るクリエイター社長としての岩田聡さんは、ゲームをプライベートでは全くしない山内溥とは対照的でした。
任天堂は山内時代の独裁で成り立ってきた歴史がありますが、その面風通しが悪くなっていた部分があったそうです。岩田さんが新社長となることで外からの視点で風通しを良くしてくれて、社員の経営方針への理解が深まったとのこと。社員とのインタビューは「社長が訊く」で外にも公開するようになりました。
山内イズムでは部署ごとのセクションの壁が厚く、採用も属人的に行っており各部門がライバルのように競争していました。それが任天堂を育てた部分もありましたが、岩田体制になってからそうした壁が取り除かれていったそうです。
山内さんは天性の観とか経験則で未来を予言したのに対し、岩田さんは科学的に数字やデータから仮説を立てて裏付けを取ろうとしました。起きていることの理由や仮説の裏付けを取るため「クラブニンテンドー(2015年9月30日に閉鎖)」を開設しユーザーの意見を集めるようにもなりました。ゲーム人口がどのような変化を起こしているのかを知り、海外では外部の調査期間を使って面接による大規模なアンケート調査も行いました。
現場をよく知り、自らもゲーム作りを愛する岩田聡さんのゲーム制作への情熱は以下にまとめられています。
「私は、ゲーム作りそのものに、奥深さ、凄みみたいなものを感じるんです。ある1つのゲームを組み立てると言うことは、操作と遊びの構造を一体化させながら、何かのテーマ、コンセプトを貫いて延々と試行錯誤を繰り返すということ。膨大な可能性を追求して、究めるように収束させていく。そんな風に作られるものって、他にあまりないんじゃないかと感じるんです。」
ゲームの基本文法を定めた宮本茂
次に「スーパーマリオ」や「ゼルダの伝説」で大ヒットコンテンツを生み出した宮本茂さんについてまとめます。
幼い頃の自然風景、遊び場にヒントを得て「スーパーマリオ」や「ゼルダの伝説」は作られたそうです。ファミコンのドット絵でも分かりやすくひげをつけたキャラクター「マリオ」は宮本さんが31歳の時に生み出されました。
「マリオ」と「ゼルダ」でゲームの基本文法を作ったと言えますが、宮本さんは「どうぶつの森」や「ニンテンドッグス」でゲームの基本文法からの逸脱をすることもしています。この二つはコミュニケーションを遊びに変えた例で、アクションゲームのようにストーリーに沿った敵や目標があるわけではなく、のんびり動物たちと過ごす「どうぶつの森」は口コミで特に10代から20代の女性に広まりました。ペット育成ふれあいゲームの「ニンテンドッグス」は触っているだけで満足できるゲームです。他にも自宅のお風呂の体重計からヒントを得て、「健康になれるのは面白い」という気づきから後の「体重を測る」「健康になる」ことをコンセプトとした「Wiiフィット」の誕生に繋がります。
宮本さんは「人生を通して遊びや楽しみを追求し、いつも日常生活のどこかでヒントやアイデアの種を見つけてはゲームに反映しているだけ」といいます。凡人と違うところは遊びや楽しい事への飽くなき探究心と鋭い嗅覚が備わっているからです。
宮本茂さんのゲーム作りの秘訣
宮本さんはゲーム作りをしているとき、二つのキーポイントがあります。一つが「肩越しの視線」で、もう一つが「ちゃぶ台返し」です。
・「肩越しの視線」
ゲームをやらない人を連れてきて、コントローラーを握らせ、そのプレイの背後から見つめて「あそこが難しい」「あの仕掛けに気づいて貰えなかった」「もっと分かりやすくする必要がある」など改善点を浮き彫りにすることです。「いつも「これからゲームに引き込もう」という人相手に作っている。今ゲームに熱中している人の意見は当てにならない事がある。」とのこと。「肩越しの視線」とは、ゲームをしない「普通の人」基準を重視する姿勢です。
・「ちゃぶ台返し」
これは任天堂の開発の人が恐れている、宮本さんのスケジュールギリギリでほぼ完成間際のゲームをやり直すことです。この「ちゃぶ台返し」は任天堂海外法人でも「Return tea table」として広く知られているようです。ただひっくり返したままにするのではなく、「こうするともっと良くなるよ」とちゃんと指針を与えるのが大事で、「ちゃぶ台返し」で良くなったソフトは多くあるのですが、「ゼルダの伝説トワイライトプリンセス」では最初のチュートリアルを1日ではなく3日に。星のカービィの原型になった「ティンクルポポ」は発売中止にして、「星のカービィ」として大ヒットになりました。
「手を加えればもっといいものになる」「このままリリースするのはもったいない」「納得できない物を商品として世に出すことが耐えられない」。クオリティのためなら「ちゃぶ台返し」や「ルールの逸脱」を厭わない姿勢が宮本茂さんをクリエイターとして一流にしているのでしょう。
お蔵入りとなったアイデアも、いつか復活させて別の物と組み合わせることで復活する例(wiiの「似顔絵チャンネル」など)もあり、常に色んな組み合わせを模索しているそうです。
「1つのテーマについて、長くしつこく考え続けることが大切で、考え続けていることの蓄積の量が、ヒットを生んでいる部分というのもあるんだなと、私は思っています」宮本茂
また仕事の姿勢では、以下のインタビューから
・常にサプライズを与え続けることに疲れないですか?
ー疲れないです。
・次は、もう種ないよ、ネタ切れだよと、なりませんか?
ーずっとそう言っていますからね、毎年(笑)。
・もう、次の驚きのテーマは見えているんですか?
ー見えてないですよ。もうずっとここ何年も見えずにきていますから。ただ5年経って振り返ってみると、あの頃には今の姿は見えてなかったよなと思うことを繰り返しているので、まあ、何か出てくる。だからできないという不安はないんですよ。
・プレッシャーもない?
ープレッシャーなんか感じたってしんどいだけ。いかに楽しく仕事をするかだけを考えてます。
仕事自体を楽しむことを重視している姿勢を持っていることが分かります。
娯楽企業任天堂のルーツ
任天堂は浮き沈みの激しい娯楽業界を生き抜いてきました。
「娯楽に徹せよ。独創的であれ。」
とは、まさにそうした任天堂が身につけた哲学です。
「任天堂がやることは、任天堂が一番強みを発揮できる部分に絞るべき。これは私が山内から教わったことですけど、上手に捨てられるから少ない人数でも大きな所と戦えるわけで、絞ってなければ、ソニーさんやマイクロソフトさんのようなジャイアントカンパニーを向こうに回して競争なんかできないわけですよ。ですから、事業を分散させない。それを前提にすると、自分たちではできないことは他社さんと組まないといけないわけで、その組み方もどんどん変わっていくんだろうなと思います」岩田聡
過去にはインスタントライスといった食品産業やホテル経営やベビー用品、タクシー経営など、多角経営で失敗してきた歴史がある任天堂。少数精鋭で組織の拡大には消極的です。
「任天堂が何でも屋になってしまうと、任天堂の個性が失われて、任天堂の良さが失われていくと思うんです。私は尖っているから強いと思っていますから。強みというのはそういうものだと思います。」
また、積極的に大きな投資をすることなく、社内留保をため込むのには理由があります。
「ゲームプラットフォームというのは勢いでビジネスをしていますから、失敗したときのダメージが非常に大きいんですね。すごくリスクが大きい。その中で、任天堂は従来の延長上にないものを作っている。それは誰も成功を保証してくれないわけですよ。何か一発大失敗をしたら、2000億円、3000億円がドーンとなくなるかもしれない。1回失敗したら後がない、倒産してしまうような状況では、うまくいかないビジネスなんです。」
ゲームは当たり外れが大きく、外れた時のダメージが大きいのです。しかもせっかくの投資が失敗に終わることがある。一度や二度の失敗で倒産しないためにも社内留保は大切になります。直近ではこの社内留保は3DSやWiiUの赤字の時期に任天堂を支えてくれるバックボーンになりました。人々に新しい驚きやアイデアを生み出すためにも豊富な資金は欠かせないのです。
また、キャッシュリッチであることが企業間の取引で有利に働くといいます。任天堂は自社工場を持たず、ファブレス方式と言って外部にハード制作を委託しています。取引先企業にとって、技術ロードマップに乗らない部品を作るのはリスクもありますが、任天堂なら取りっぱぐれがないことの信用になるそうです。
明文化されていない任天堂のDNA
では任天堂の社風とはどういうものでしょうか?
岩田さんは、採用の時どんな人材が欲しいのかという質問に対して、
「独創的で柔軟であること。これはある意味、任天堂の社是ですから。文章として伝わっていないだけで、山内時代から、たぶん任天堂がずっと守っていくべきこと。それから、人に喜ばれることが好き。言い換えるとサービス精神ですかね。うん。それから知的好奇心があること。」
と答えています。お客さんの喜んでくれたり、驚いてくれる反応があるからこそ面白くて仕事が出来るといいます。自分たちの出したアイデアが「うける」ことに何よりも喜びを感じているといいます。
枯れた技術の水平思考
任天堂は横井軍平という一人の人物を抜きには語れません。「ゲームボーイ」と「ゲーム&ウォッチ」の生みの親、横井軍平さんの枯れた技術の水平思考の話は今を生きるクリエイターたちにとっても気づきとなります。枯れた技術の水平思考とは、古くて安価になった技術を思いもよらぬ形で組み合わせることでこれまでに無かったアイデアを形にすることです。
技術が枯れる=普及すれば安くなり、結果として安価で作れて、新しい驚きをもたらす道具に変化させることができます。枯れた技術を思わぬ形で転用するから、子供たちがプレゼントで買って貰えるような価格で世間に驚きを与える斬新な商品を提供できるのです。この横井軍平の精神はWiiやDSにも引き継がれています。岩田聡時代の任天堂が取り戻した任天堂の原点といえるでしょう。
アイデア玩具のトップだった横井軍平さんが生み出した「光線銃SP」は当時としては大ヒットの玩具となりました。豆電球と太陽電池を誰もが考えつかないような発想で組み合わせて遊び道具に換え、1970年代の電卓競争の時代には電卓で数字ゲームを遊んでいるサラリーマンをヒントに大ヒット作「ゲーム&ウォッチ」を生み出しました。
最先端の技術を尽くした豪華な映像や音楽だけが人の驚きを生むわけではない。ハイテクではなくローテクで勝負したゲームボーイ。色数や画質、音色はゲーム機の面白さを生む要素ではないのです。性能よりも、面白さや驚きを追求する姿勢が重要です。
宮本茂さんは横井軍平さんを師匠とあがめているそうです。
「何かの部品を見てそれがどんな商品になるのかをずっと考えるみたいな、昔、横井さんがやっていたようなことが、基本的にうちの社風として残っていた。今の先端を行くことだけが答えではないという意識を、もともと常に持っていたんですね。けれども、自ら先端を捨てることへの恐怖感があったり、ゲーム雑誌やゲームショウで先端の流れを見せつけられると、不安になることもある。だけど原点に帰って話をすると、ああ、先端を行かない方が任天堂らしいなみたいな文化になっているんです。」宮本茂
岩田さんも枯れた技術の水平思考を意識しています。
「本来、娯楽って枯れた技術を上手に使って人が驚けばいいわけです。別に最先端かどうかが問題ではなくて、人が驚くかどうかが問題なのだから。」岩田聡
Appleとの違いについて
本書ではAppleと任天堂との違いについても触れられています。Appleと任天堂は独特な哲学を持つ商品を作ることで共通していますが、Appleはパソコンやスマートフォンなど生活に欠かせない物を作っており、任天堂はあっても無くても良い物を作っていて、ここが一番大きく違うところだといいます。任天堂は人々の生活に必ずしも必要とされないゲームという娯楽で戦ってきた矜持があります。
「僕らは基本的にずっと役に立たないモノを作ってきました。役に立たないモノに人は我慢しない。説明書は読まない。分からなければ全部作り手のせい。ゲームソフトも、5分触ってわからなければ、これは「クソゲー」だと言われて終わりですから」岩田聡
「役に立たないモノ」を作ってきたからこそ、任天堂は気持ちよく遊んで貰うための努力をずっと積み重ねてきたのです。Wiiリモコンが手をすり抜けてテレビの画面を割ってしまうことがYoutubeで話題となったときもすぐにリモコンケースを配布するなど対応しました。修理サポートも丁寧に対応してきました。生活必需品ではないモノを作ってきたからこそ、消費者・ユーザーを大切にしてきたのです。
中興の祖・山内溥から学ぶ娯楽業界の生き残り経営哲学 ハード体質とソフト体質
本記事の最後に、京都のトランプ屋だった任天堂を世界の任天堂にした山内溥さんについてまとめます。
カリスマ経営者として知られる山内溥。優秀なビジネスの嗅覚を持つワンマン経営者として語られます。山内のワンマン体制がなければ、今日の任天堂はなかったとの声も。
「山内さんという人があの時限られた条件と限られたリソースと時代背景の中でベストなことをしたから、小さなトランプ屋さん、カルタ屋さんが、ここまで大きくなった。」
ゲームソフトが高画質化、高音質化、大容量化の重厚長大路線を歩み、ヒットすればII,III,IVとシリーズが続く状況に最初に危機感を覚えたのは横井軍平さんでした。その横井さんは任天堂から独立した後、1997年に不慮の事故に巻き込まれて亡くなってしまいます。山内さんはその横井さんの遺志を受け継ぎ、重厚長大なゲームは飽きられてしまうことに危機感を覚えていきます。
・「ゲームビジネスの本質は、常に新しい楽しさを開発し、ひたすら完成度を高めていくことである。」
・「ゲーム業界からアイデアや驚きが失われている。安直な大容量、重厚長大路線はいずれ顧客離れを引き起こし、業界全体が沈んでいく。」
と警鐘を鳴らしていました。そして娯楽業界で生き残るために、ソフト体質で生き残ることに活路を見いだします。
ソフト体質で生き残る ハード体質とソフト体質
山内溥さんはハード体質とソフト体質でビジネスを考えていました。
産業はハードとソフトに分けられるといいます。自動車、鉄鋼、造船、家電といった物作りの企業は、ハードの会社。我々人間の生活をよりよく長く保持するために必要なモノを作る会社。こうした生活必需品のものづくり産業では、よりよいモノを安く作ることが至上命題となります。
しかし任天堂は娯楽の会社。いかに余暇を楽しく過ごすか、いかに味気ない生活を彩りのあるものにしていくかが重要となります。人間が生きるために必要なモノを扱うのではないので、喜びや驚きがないと見向きもされません。分かりやすく快適でないとお客さんはそっぽを向いてしまう。技術や性能、価格といったハードの出来ではなく、コンテンツの面白さやルール、仕組み、ソフトの出来が求められる世界です。
山内さんはこの洗練されたソフトを生み出す体質=ソフト体質を重視しました。
「ロクヨンの失敗はハード体質になってしまったから。性能を優先させ、ソフト開発の難易度を上げてしまった。」山内溥
ハードが分からなければソフトについて語れないのを前提としつつも、ソフトを主軸に戦い、ハードがそれに従うようでなければなりません。ソニーはハードが主で、ソフトが従。任天堂はソフトが主で、ハードが従とのこと。
「いったい何を基準にして任天堂に必要な人を選ぶのかと言えば、果たしてその人が「ソフト体質」を持っているか否か。実際に接してみると、この人はハードの人、この人は体質的にソフトに順応できる人というのがわかってくるんですよ。僕自身がソフト体質の経営者だから、そういうことがわかるんじゃなかろうかと自分では思っているわけです。」山内溥
また、山内溥さんは企業理念は嫌いだそうで。
「企業理念という言葉は僕は嫌いだから、そういう言葉に対しては抵抗があります。評論家か経営者かわからんような経営者が増えてきて、そういう人たちの本も出ている。しかし、それを読んでいったい何になるんです。参考になるかも知しれないが、それでは経営者として大成しないと思う。やっぱり自分で考えないと。だから、そういう言葉は使いません。しかし当然、考えがなかったら経営はできませんからね。」
自分で多角経営の失敗や、娯楽業界の浮き沈みを経験した上での言葉に重みを感じます。
ハードとソフトの考えで言えば生活必需品(ハード)と娯楽品(ソフト)は区別する必要があり、ユーザーインターフェイスの反応のスピードや操作の快適さ、説明不要の操作性、製品の堅牢さ、手厚いサポートは任天堂が強みとするゲーム屋が鍛えられてきた部分であるといいます。
明文化された任天堂の社是はないけれども、「よそと違うことをすること、人と同じ事を続けたら飽きられてしまうこと、環境の変化に対して柔軟であり、過去に成功した方法が未来にも通じると思ってはいけない」といった、常に新しい娯楽を追求する姿勢が重要なのです。
娯楽は勝てば天国、負ければ地獄。考え続けたアイデアがいいわけではなく、パッと思いついたアイデアが優れている場合もあります。努力が結果に必ずしも結びつくとは限らない厳しい世界です。アイデアがすべてであり、常に人を驚かすようなアイデアを生み続けなくてはなりません。
岩田聡さんも、山内さんに対して以下のようなことを述べています。
「山内溥という人は、何にこだわっていたか。「娯楽はよそと同じが一番アカン」ということで、とにかく何を作って持っていっても、「それはよそのとどう違うんだ」と聞かれるわけです。「いや、違わないけど、ちょっといいんです」というのは一番ダメな答えで、それではものすごく怒られる。それがいかに娯楽にとって愚かなことかということを、徹底していたんですね。」岩田聡
スマートフォンなどのアプリ開発にも応用できそうな言葉ですね。
失意泰然、得意冷然であれ。
「失意泰然、得意冷然(しついたいぜん、とくいれいぜん)」とは山内溥さんの座右の銘です。浮き沈みの激しい娯楽業界で生き残ってきたからこそ、結果に一喜一憂しない心構えが重要となります。
一寸先が闇の娯楽業界で、運は天に任せ、与えられた仕事に全力で取り組む。山内さんが定義した任天堂の社名の由来はここにあります。
「人事を尽くして天命を待つのとは違う。人事は尽くせないし、努力は際限ない。人の力が及ばない運というものはある」「最後は天が決める。それまで最善を尽くせ。」山内溥
任天堂の社風の根幹には「運」を重んじる考えが厳然と存在します。
「僕に運があったのは、ゲームボーイが誕生してポケモンも出てきたこと。任天堂には、やっぱりソフト体質の人々がいて、それでなんとか折り合いがついた。これは何かと言ったら、もう運が良かったとしかいいようがない」山内溥
山内さんいわく、DSやWIIのヒットも運が良かったからであり、決して安心することはなかったとのこと。「勝って兜の緒をしめろ」を地で行く経営です。
大ヒット作を連発している宮本さんも、山内さんから「身の丈を知りなさい」とずいぶんと言われたといいます。上手くいった時の過信を嫌い、ちゃんと客観的に見る目が大事だとの戒めを受けたそうです。
この「運」を重んじる経営精神は私たちの人生にも応用できるところではないでしょうか。いい時に恵まれれば運に感謝し、悪い時は運がなかったと次に切り替える。常に平静で、自分のするべき事を淡々とこなしていく姿勢が重要です。
・運に恵まれない時は、慌てず泰然と構え努力せよ。
・運に恵まれた時は、運に感謝し冷然と努力せよ。
伝統的な「かるた」・「花札」の製造業として始まった任天堂。しかし幕府や政府からの締め付けや規制も激しく、非常に浮き沈みが激しかったといいます。そんな中、任天堂創業者の山内房次郎は時代の先を見通し、よそと違うことをして、市場を開拓してきました。
「僕たちのビジネスというのは、勝ったら天に昇るけれども、負けたら地に沈む。だから、それはもう、素晴らしい発想が出てくるのか、こないのか、アイデアにかかっている」山内溥
アイデアで勝負できなくなった時が任天堂が廃業する時。常に人々を驚かすようなアイデアを考え続け、喜びを生み出すことで娯楽産業を生き抜いてきた任天堂。その経営哲学は不安定な時代を生きる私たちの人生にも応用できると私は思いました。
総評
満足度100%。今回ブログ記事とするために再度読み直しましたが、まだまだ多くの発見があって面白かったです。ライターの井上理(いのうえおさむ)さんの文章が極めて読みやすく、的確かつ簡潔に引き締まった文章でまとめているので、ぐいぐい引き込まれます。「飽きとの戦い」が求められる娯楽産業にとって、常に人々に驚きや喜びを提供し続けるのは大変なこと。一発当たればでかいけれど、外れれば大損害を被ることになります。まさにギャンブル。初めて読んだときは任天堂の社名の由来が「運を天に任せる」ことを知り、とても興味深く印象に残ったことを覚えています。
2009年に出版された本書ではスマフォゲームに関しての考察はありませんが、現実には日本ではスマフォゲームのガチャが売れるという特異性があり、多くのゲーム会社がスマフォゲームに活路を見いだすようになっています。
今とは状況が違いますが、なぜ当時の任天堂がスマフォゲームに手を出さなかったかが分かります。任天堂は本質的な「喜び」や「驚き」を提供したいのであって、短期的に莫大な利益を生み出すが、射幸心を煽り人々を不幸にすることもある「ガチャ」とは相性が悪いのです。
本書ではこの記事ではまとめられなかった、より詳細ないち京都のカルタ屋であった任天堂が世界的なゲームメーカー任天堂になった歴史が書かれています。浮き沈みの激しい不安定な娯楽業界を生き抜いてきた任天堂から学べることは、私たちの人生にも応用できるのではないでしょうか。すべての任天堂に興味がある人、娯楽産業に興味がある人に手に取って欲しい一冊です。
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